新宮市立神倉小学校(富田英之校長)で14日、ふるさと学習に向けた事前授業があった。6年生59人が、熊野学研究委員会の委員などを務める中瀬古友夫さんから、市の発展の歴史や、熊野川の河原にかつて存在した組み立て式の簡易家屋「川原家(かわらや)」などについて学んだ。
神倉小学校運営協議会(下岡輝子会長)による「ヤタガラス子ども未来プロジェクト」の一環。児童たちに地元の歴史や文化を学び、愛着を持ってもらうために同協議会メンバーを中心にした有志の協力の下に取り組んでおり、31日(金)には川原家造りの見学や体験を行う予定。
中瀬古さんはスライドで「新宮」という名前の由来を説明。熊野の初期の祭祀(さいし)場(神倉神社)に対して、新たな社殿(熊野速玉大社)を造営したことにちなみ「新しい宮」を意味する新宮となったと解説した。
明治大正の町の様子の紹介では、熊野川と太平洋を利用した水運で製材業が隆盛を極めたこと、当時の新宮は東京、大阪などとの交通が他の地域と比較しても便利だったことに触れた。
また、川港だった熊野川河口は、最盛期には約200軒の川原家でにぎわい、川の増水時には簡単に分解して避難できたことなどを写真で紹介。1935年の熊野大橋の完成で廃れたが、46年の昭和南海地震では市街地を焼け出された人たちにより再利用されたことなどを語った。
地元出身の文人、佐藤春夫が作詞した新宮市歌の一節「水にも火にも砕けざる金剛の都市」には、この昭和南海地震や明治初期に発生した大水害をくぐり抜けてきた新宮市への思いがあるとも話した。
2組の佐々木晴登さんは「話を聞いて昔の新宮のことをもっと知りたいと思った。川原家のことは知っていたけど、災害時に使われていたのは知らなかった。実際の組み立てはうまくやりたい」と話していた。
(2025年10月18日付紙面より)
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