和歌山県の熊野灘沿岸地域の捕鯨文化に関するストーリー「鯨とともに生きる」が2016年4月、文化庁の日本遺産に認定され、今年で10年を迎えた。これを機に、熊野灘捕鯨文化継承協議会(県東牟婁振興局内)はこのほど、冊子「日本遺産 鯨とともに生きる~くじらと人の物語~」を発行。物語の舞台である新宮市、那智勝浦町、太地町、串本町の捕鯨に関する文化やスポットに焦点を当てて紹介している。
紀伊半島の南東部、黒潮が流れる熊野灘沿岸の人々は、昔から鯨とともに生きてきた。一帯では江戸時代初期に組織的な捕鯨が始まり、地域の一大産業に発展。大いなる海の恵みは人々の暮らしを支え、一方で人々は鯨に感謝し、巨体を余すところなく活用してきた。
捕鯨は現在も継続されており、地域には鯨と人との関わりを示す史跡も残り、鯨にまつわる祭りや伝統芸能、食文化も受け継がれている。
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■古式捕鯨の歴史
当地域では、太地、三輪崎、古座で古式捕鯨が行われていた。古来、日本人にとって鯨は、海のかなたより富をもたらす「えびす」だった。人々は時折、浜辺に打ち寄せられる鯨を「ありがたい糧」としたが、やがて暮らしのために自ら捕鯨する道を歩み始め、江戸時代に入ると組織的な捕鯨が始まった。創始者は太地の郷士・和田忠兵衛頼元と伝わっており、今では捕鯨の祖とあがめられている。
当初は鯨を銛(もり)で突く漁法だけだったが、のちに太地角右衛門によって網取り法が開発された。船団を組んで鯨を囲み、網を絡めた後に数種類の銛を打ち込み、最後は大きな剣でとどめを刺したという。命の危険を伴うこの漁を担ったのは、古くは源平合戦で勇名をはせた熊野水軍の末裔(まつえい)たちといわれる。勇敢で団結心が強く、造船や操船技術に優れ、泳ぎにも長(た)けていた。
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■多岐にわたる役割
山見台と呼ばれる高台から鯨を見張る「山見」、鯨に銛を打ち込む「羽指」、解体・加工する「鯨始末係」、仕留めた鯨を運ぶ者、用具を管理・修繕する者など、捕鯨は500人以上が役割を分担して行っていたという。年間95頭が捕れた1681(天和元)年は、6000両を超える利益が得られたとされ、鯨は「一頭で七郷が潤う」といわれるほど莫大な富をもたらした。
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■息づく捕鯨文化
この地にはさまざまな行事が受け継がれており、子どもたちが郷土学習の一環で鯨踊りを習っている。熊野灘沿岸の人々にとって、鯨は今でも身近で特別な存在。400年の歴史がある捕鯨文化は今もなお、地域に根差し息づいている。
(2026年10月10日付紙面より)